ココプリ(僕の心はプリッツのように脆く切ない)

ベトナム駐在員が、スポーツネタを語るブログ

2018 CS終戦 ~西武と近鉄と磯部と~

プロ野球 クライマックスシリーズが終わりました。

 

パリーグは、シーズンを独走した西武が、恐らくおおかたの予想通り、ソフトバンクにボコボコにされて終わりました。

菊池雄星で負けた時点で、西武としては厳しい展開に追い込まれてしまいましたね。

 

とはいえ、今年の西武は非常に魅力的なチームでした。

打線に華があるチームはやはり魅力的です。
さらに、反面、投手力に不安があればなお魅力を感じてしまうのは私だけでしょうか。

上林/柳田/デスパ/内川/中村晃 らへんと、秋山/源田/浅村/山川/森友 らへんを比較したとき、実はまぁ大差ないと思います。
特に今回、SB打線はアチアチ状態でした。
ホークスも打線は十分すごい。スター性もあるし十分魅力的です。


でも、ホークスは(今シーズンは状態がイマイチとはいえ)ピッチングスタッフも球界随一。
勝って当たり前感があります。

※金満球団で選手を金で集めているイメージがありますが、
※投手陣に関しては、なぜこう次々と優秀な左右の中継ぎが出てくるのか、不思議です。

 

片や、西武さんは、ここ数年ず~~っと投手陣が課題。
涌井/岸/牧田と、主力投手の流出も止まりません。

投手陣というハンデがありながら点の取り合いに持ち込んで勝つ。
私はそんなチームが好きですね。


そうです、私は2000年前後の近鉄ファン。
いてまえ打線に魅了された十代でした。

 

きっかけは中村ノリ。
フルスイングが代名詞。三塁守備も名手でした。
何と言ってもバッティングフォームが超絶かっこいい…

ノリさんの他にも、王さんのシーズンHR記録記録に迫りかけたタフィ・ローズ、いまや野球盤の人になった感のある吉岡など、スラッガーが揃っていたし、大村/水口といった脇役も充実していました。

 

中でも印象に残っているのは磯部公一選手。
パリーグを制覇した2001年に、ローズ→中村のうしろ、クリーンナップを打っていた選手です。

なぜ強く心に残っているのか。

優勝年に活躍したから、そして、綺麗に逆シリーズ男だったからというのもあるのですが、主な要因はパワプロです。

パワプロあるあるかもしれませんが、パワーもミートも特能もたいしたことないのに、やたら打てる選手って時々いませんか?
なぜか待ち構えてるポイントに変化球が吸い寄せられて、強振フルスイングすると高確率でスタンドに突き刺さる選手です。

私にとっては、阪神にいた葛城選手、楽天リック選手、そしてこの近鉄磯部選手がそうでした。

2001年の近鉄で1シーズンプレイしたら、.420 42 100 打点くらいを叩き出し、数字以上にプレー感として爽快な印象を与えてくれたことを思い出します。

2001年以降は、日本シリーズで徹底的にマークされた影響で不振に陥り、気付けば消えてしまったような気がしますが、良いバッターでした。

 

そういえば、その後はどうしちゃったのでしょう。

 

ということで、

ココプリ緊急企画 あの人は今・・・ 

第一回 いてまえ打線のポイントゲッター兼コナミに愛された男 磯部公一選手

 

・2001年 パリーグ制覇・ベストナイン
・2003年 近鉄最後の選手会長に
・2004年 近鉄消滅。選手会長として「僕らの近鉄に対する誇りは忘れない」
・2005年 分配ドラフトで楽天へ。初代選手会長・初代主将に
・2005年 球団第一号HR。チーム唯一オールスター出場。

・2009年 現役引退。二軍育成コーチ就任
・2010年 一軍打撃コーチ補佐就任
・2011年 二軍打撃兼外野守備コーチ
・2012年 二軍打撃コーチ補佐
・2013年 二軍外野守備コーチ
・2014年 一軍外野守備走塁コーチ
・2015年 一軍打撃コーチ
・2017年 退団

・現在 東日本放送/東北放送/仙台放送/JSPORTS解説者


近鉄最後かつ、楽天初代選手会長だったんですね。
近鉄消滅騒動のころは、正直いやになってあまり近鉄情報を集めていませんでした。

引退後、楽天のコーチをクルクル回って、今年から解説者。
結局、楽天創設から昨年まで楽天にいたようです。

それほどガチのファンだっだわけではないので、

・広島県立 西条農高出身。
・高3時、甲子園出場。我孫子高戦でバックスクリーンにホームラン
・大会後、日本代表に

・高卒後の社会人では三菱重工広島の主砲として活躍。
・96年の都市対抗では決勝に進むが、入来祐作の本田技研に敗れる

・97年 ドラフト3位で近鉄入団
・当初オリックス志望だったが、当時の近鉄監督 佐々木恭介がヘリコプターで磯部を訪問。説得。(!!!)

とかは知りませんでした。

上記、Wiki先生に頼りましたが、思い立った懐かしの選手をWikiで調べるのはおもしろいですね。

この路線でいってみようかしら。。。

ぽるた

ご挨拶 ~私がブログをはじめる理由~

思春期に夢中になったものは、恐らく一生心に刻み込まれるのでしょう。

 

1998年、日本が初めてW杯に出場した年、ぼくはスポーツにハマりました。
見る方です。やる方ではありません。

そこまで15年、少年野球(1年間)→ミニバス(3年間)→中学バスケ部(3年間)と、まぁまぁ王道の部活キャリアを積みました。

 

公式戦のプレイタイムは、中学のバスケットボール大会地方予選、1回戦、ナントカ中学戦のラスト5分。バスケ歴6年間で、5分。

 

生涯の50Mベストタイムが 8秒0。逆上がりは一度もできたことがありません。

 

15年、ごまかしごまかし生きてきました。
でも、プレイするのはもうダメでした。スポーツマンガの人たちのように、強い心は持っていませんでした。

私の心はプリッツサラダ味でした。ポキっと折れました。

 

1998年、ひっそりとプレイヤー人生の幕を下ろしました。


それでも、98年は私にとって特別でした。

 

2月。

高校受験会場で、ジャンプ団体が金メダルを取ったことを試験官から知らされました。

 

6月。

入学後、Number で仕入れた情報だけで「フランスW杯の優勝候補はスペイン」とイキり散らし、結果、無かったことにしました。

 

同月。

神様ジョーダンが、神様のまま引退しました。

 

8月。

伝説の横浜-PL戦 → 明徳 → 決勝 の流れを全試合自宅リビングで観戦。松坂も松本君も同じ神奈川の高校生であることに気付き、愕然としました。

 

9月。

マグワイヤがHR記録更新。見た目だけで「あの体は絶対クスリやっとるで!」とイキリ散らし、結果、正解でした。

 

10月。

地元ベイスターズが38年ぶりに優勝しました。「また優勝は38年後だな!」とイキリ散らし・・・・・どうでしょう、悲しいかなやや現実味を帯びて来ました。

 

11月。サイレンススズカが死にました。カメラがスタジオに戻ったときの、齋藤陽子さんの涙ぐんだ顔が今でも忘れられません。

 

12月。

生前のサイレンススズカにぶっちぎられていたグラスワンダーが有馬を取りました。

 

田臥率いる能代の3冠もこの年かと思われます。
(違ったかも)(田臥、松坂、小野伸治はみんな同い年だった気が…)


プレイを諦めながら、数々の出来事に心を動かされたこの98年、

「スポーツライターになりたい」という夢ができました。

 

で、大学も、メディア論が勉強できる大学に進みました。

 

大学ではじめて親許を離れました。
酒を覚えました。
バイクで事故って死にかけました。
はじめて彼女ができました。

 

今でいう「意識高い系」を小馬鹿にしていたら、就活の時期になっていました。

 

Number の文藝春秋に、光の速さで落とされました。
一撃で心のプリッツが折れました。

 

気付いたら、中小企業のサラリーマンになっていました。

ベトナムで、仕事以外にやることがない、クソのような駐在員になってしまいました。

 

ゴルフをやらない駐在員は、ベトナムで何をやれば良いのか。
いや、ベトナム云々の前に、やりたいことってなんだろうか?
日本にいたときだって、リア充っぽい雰囲気を出してただけだろう。
ゲーム以外、趣味なんてなかったじゃ~ん。


で、かつての「夢」を思い出しました。

時代は変わり、誰でも情報発信できる時代になりました。
よし、ちょっとやってみよう。

こんな理由です。

現在のメディア環境は、日本の地上波/BS(WOWOWやJ-SPORTS含む)/CS(GAORAとかG+とか)視聴可能です。
ネット経由で、恐らく違法に、日本にいたときよりもリッチな環境を享受できています。
世界はITでつながるのですよ。ほほほ。


基本、最新のスポーツネタを取り上げながら、感じたことを書いていきます。
ときどき、昔を懐かしんだり、ベトナムネタを書いたりするかもしれません。

既述の通り、心がプリッツですので、テーマはすぐ変えるかもしれませんが、
そこは多様性を受け入れてください。
すいません、「多様性」という言葉を使ってみたかったんです。

 

合言葉は、「心は?」「プリッツ!」!!


では、よろしくお願いいたします。

ぽるた