ココプリ(僕の心はプリッツのように脆く切ない)

ベトナム駐在員が、スポーツネタを語るブログ

ご挨拶 ~私がブログをはじめる理由~

思春期に夢中になったものは、恐らく一生心に刻み込まれるのでしょう。

 

1998年、日本が初めてW杯に出場した年、ぼくはスポーツにハマりました。
見る方です。やる方ではありません。

そこまで15年、少年野球(1年間)→ミニバス(3年間)→中学バスケ部(3年間)と、まぁまぁ王道の部活キャリアを積みました。

 

公式戦のプレイタイムは、中学のバスケットボール大会地方予選、1回戦、ナントカ中学戦のラスト5分。バスケ歴6年間で、5分。

 

生涯の50Mベストタイムが 8秒0。逆上がりは一度もできたことがありません。

 

15年、ごまかしごまかし生きてきました。
でも、プレイするのはもうダメでした。スポーツマンガの人たちのように、強い心は持っていませんでした。

私の心はプリッツサラダ味でした。ポキっと折れました。

 

1998年、ひっそりとプレイヤー人生の幕を下ろしました。


それでも、98年は私にとって特別でした。

 

2月。

高校受験会場で、ジャンプ団体が金メダルを取ったことを試験官から知らされました。

 

6月。

入学後、Number で仕入れた情報だけで「フランスW杯の優勝候補はスペイン」とイキり散らし、結果、無かったことにしました。

 

同月。

神様ジョーダンが、神様のまま引退しました。

 

8月。

伝説の横浜-PL戦 → 明徳 → 決勝 の流れを全試合自宅リビングで観戦。松坂も松本君も同じ神奈川の高校生であることに気付き、愕然としました。

 

9月。

マグワイヤがHR記録更新。見た目だけで「あの体は絶対クスリやっとるで!」とイキリ散らし、結果、正解でした。

 

10月。

地元ベイスターズが38年ぶりに優勝しました。「また優勝は38年後だな!」とイキリ散らし・・・・・どうでしょう、悲しいかなやや現実味を帯びて来ました。

 

11月。サイレンススズカが死にました。カメラがスタジオに戻ったときの、齋藤陽子さんの涙ぐんだ顔が今でも忘れられません。

 

12月。

生前のサイレンススズカにぶっちぎられていたグラスワンダーが有馬を取りました。

 

田臥率いる能代の3冠もこの年かと思われます。
(違ったかも)(田臥、松坂、小野伸治はみんな同い年だった気が…)


プレイを諦めながら、数々の出来事に心を動かされたこの98年、

「スポーツライターになりたい」という夢ができました。

 

で、大学も、メディア論が勉強できる大学に進みました。

 

大学ではじめて親許を離れました。
酒を覚えました。
バイクで事故って死にかけました。
はじめて彼女ができました。

 

今でいう「意識高い系」を小馬鹿にしていたら、就活の時期になっていました。

 

Number の文藝春秋に、光の速さで落とされました。
一撃で心のプリッツが折れました。

 

気付いたら、中小企業のサラリーマンになっていました。

ベトナムで、仕事以外にやることがない、クソのような駐在員になってしまいました。

 

ゴルフをやらない駐在員は、ベトナムで何をやれば良いのか。
いや、ベトナム云々の前に、やりたいことってなんだろうか?
日本にいたときだって、リア充っぽい雰囲気を出してただけだろう。
ゲーム以外、趣味なんてなかったじゃ~ん。


で、かつての「夢」を思い出しました。

時代は変わり、誰でも情報発信できる時代になりました。
よし、ちょっとやってみよう。

こんな理由です。

現在のメディア環境は、日本の地上波/BS(WOWOWやJ-SPORTS含む)/CS(GAORAとかG+とか)視聴可能です。
ネット経由で、恐らく違法に、日本にいたときよりもリッチな環境を享受できています。
世界はITでつながるのですよ。ほほほ。


基本、最新のスポーツネタを取り上げながら、感じたことを書いていきます。
ときどき、昔を懐かしんだり、ベトナムネタを書いたりするかもしれません。

既述の通り、心がプリッツですので、テーマはすぐ変えるかもしれませんが、
そこは多様性を受け入れてください。
すいません、「多様性」という言葉を使ってみたかったんです。

 

合言葉は、「心は?」「プリッツ!」!!


では、よろしくお願いいたします。

ぽるた